資格で理想のライフスタイルを実現する、キャリ魂塾のキャリ魂太郎です。

このエントリーでは、村上春樹のベストセラー「ノルウェイの森」の登場人物である「永沢さん」を考察しています。

永沢さんとは

永沢さんとは、繰り返しになりますが「ノルウェイの森」の登場人物です。

彼がどういう人物かというと

・東大の法学部の学生
・読書家だが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはせず、そういう本しか信用しない
「俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短い」
・何の苦もなく東大に入り、文句のない成績をとり、公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとしていた。
・父親は名古屋で大きな病院を経営し、兄はやはり東大の医学部を出て、そのあとを継ぐなど、申しぶんのない一家。
・小づかいもたっぷり持っていたし、おまけに風釆も良かった。
・彼が誰かに何かを要求すると、言われた人間は文句ひとつ言わずにそのとおりにした。そうしないわけにはいかなかった。
・ごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生まれつき備わっているようだった。
・人々の上に立って素速く状況を判断し、人々に手際よく的確な指示を与え、人々を素直に従わせるという能力があり、彼の頭上にはそういう力が備わっていることを示すオーラが天使の輪のようにぽっかりと浮かんでいて、誰もが一目見ただけで「この男は特別な存在なんだ」と思っておそれいってしまう。

(出典:ノルウェイの森 ©村上春樹 講談社)

というスーパーマンです。

そして、「永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生まれつき備わっているようだった。」と評されるように、ノルウェイの森の読者にも彼が好きな人は非常に多いように思います(従っているかは別として、引き付けられると言う意味では、私もそうですね)。

こんな東大の、その中でも異彩を放つスーパーマンに、悩みはあるのでしょうか。

あるんですね。

永沢さんは、主人公である「僕」に、「いくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせ持った男」であることを看破されています。

それは、下記のように述べられています。

彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優しく、それと同時におそろしく底意地がわるかった。びっくりするほど高貴な精神を持ちあわせていると同時に、どうしょうもない俗物だった。人々を率いて楽天的にどんどん前に進んで行きながら、その心は孤独に陰鬱な泥沼の底でのたうっていた。
(中略)
この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。

(引用:ノルウェイの森 ©村上春樹 講談社)

今回は、ちょっとそういう永沢さんを見ていきたいと思ったわけです。

永沢さんは、外交官になりたいわけではない。

永沢さんは、

何の苦もなく東大に入り、文句のない成績をとり、公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとしていた。

と紹介されるのですが、彼は別に外交官になりたいわけではありません。

「じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?」

「いろいろと理由はあるさ」と永沢さんは言った。

「外地勤務が好きだとか、いろいろな。でもいちばんの理由は自分の能力をためしてみたいってことだよな。どうせためすんならいちばんでかい入れものの中でためしてみたいのさ。
つまりは国家だよ。このばかでかい官僚機構の中でどこまで自分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を持てるかそういうのを試してみたいんだよ、わかるか?」

いかがでしょうか。

彼がしたいのは「外交官として働くこと」ではなく「自分試し」です。

彼の行動は、実はこの「自分試し」によるところが非常に大きいんですね。

例えば

つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかるか?

日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。
(中略)
向こうだってそれを待っているのさ。それが可能性というものだよ。そういう可能性が目の前に転がっていて、それをみすみすやりすごせるか?
自分に能力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通り過ぎるかい?

このように、ある意味では「自らの能力の高さがゆえに、本当に自分がしたいことが見えておらず、無為な時間を過ごしている」のが永沢さんなんです。

何でもできて「しまう」。

ゆえに、その「自らの能力」という本来「手段」であるはずのモノに捉われ、キャリア形成ですら「能力確認(力試し)」が目的になってしまっているんです。

それが、「僕」と友達になった理由(自らの能力に影響されない人間が珍しい)でもあるわけですが…

永沢さんの努力論

永沢さんは、努力について、下記のように述べます。

「僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?」

「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡単に言った。
「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」

ここにも矛盾があります。

彼は「主体的」ではあるかもしれませんが、「目的的」ではありません。

彼が外務省に入って外交官になりたいのは、「自分の力を試したい」というものであり「何かを成し遂げたい」というような「想い」即ち「目的・目標」は見えてこないんです。

「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」

という割には、自分がやりたい「ナンパ」をやり、紳士としてやるべきではない「恋人を傷つける」という行為に気づいていません。

それが

「この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。」

という言葉で表されている「地獄」の一つかもしれません。

キャリ魂太郎の永沢さんへの「見立て」

もし私が、永沢さんをキャリアコンサルティングするとしたら、見立ては、下記のようなものです。

つまり「能力がありすぎて、本当にやりたいことが分からない。また自然と周りを巻き込み、ときには(自らが気付かないうちに)回復が不可能なほど、周囲の人々を傷つけてしまうという行動特性を持つこと。そしてその行動特性に気づいていないこと。」

表面的には、永沢さんは順風満帆なキャリアを送っています。

しかし、彼は周囲の大切な人に「回復不可能なほどの傷」を与えてしまう。

それを彼自身、どうにもできないでいるんですね。

だから彼は

「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも」

と、唯一の友人ともいえる「僕」に手紙を書くのです。
※上記引用での「この僕」は永沢さん自身です。念のため。

どうすれば、彼の「能力がありすぎて、本当にやりたいことが分からず、自然と周りを巻き込み、ときには(自らが気付かないうちに)回復が不可能なほどに傷つけてしまうという行動特性」を理解し、より良い人生を送るようなカウンセリングができるでしょうか。

おそらくできない。

それを「僕」は「頭が良すぎる」と表現しています。

頭が良すぎるがゆえに、他人の言葉を先回りして理解してしまい(理解したつもりになり)、本当の問題に気付かずに去ってしまうから。

とりあえずはこんなところです。

「速読」では見えてこない、「本を読む面白さ」が伝わると良いですね。

また加筆していきたいと思います。

一部では、ノルウェイの森ネタを楽しんでいただいているようなので、カテゴリー分けしようかな。

ノルウェイの森 (講談社文庫)

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