「死ぬほど悩んでいるなら相談して欲しい」という言葉を見るのが、個人的にはあんまり好きではありません。
「力のなさ」を自覚していたら、こんな言葉は出ないんじゃないか、そんな風に思ったりします。
こういった言葉は「自分なら救えたかも」という「傲慢さ」や、その人の悩みの深さについて「無知」だからこそ言えるように感じる部分がどうしても拭えないんですね。
赤の他人の「死ぬほどの悩み」を受け止める「器」が、そしてその問題を支援できる「能力や余裕」が、自らに備わっているのか?
まずはこういったことを自らに問うべきだと思います。
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悩みが深刻なほど、相談できなくなる
久しぶりに村上春樹の「ノルウェイの森」。
こんな一節があります。
「ねえ、お金持ちであることの最大の利点ってなんだと思う?」
「わからないな」
「お金がないって言えることなのよ。たとえば私がクラスの友だちに何かしましょうよって言うでしょ、すると相手はこう言うの、「私いまお金ないから駄目」って。
逆の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金ない』って言ったら、それは本当にお金がないっていうことなんだもの。」
(引用:「ノルウェイの森」 村上春樹)
もし、あなたの会社の社長が、「お金が無い」と言ったら…?
それは「シャレにならない」ですよね。
だから、社長はベンツに乗らざるを得ないのです。
あのベンツは、乗りたくて乗っているのではなく、ただ「売れない事情がある」だけかもしれない。
だって、「ベンツを売るほど、資金繰りに余裕がないのか?」と思われるリスクがある以上、「弱みを見せるなんてことはできない」から。
では、社長が「カウンセリングに行った」なんて、従業員に知られたらどうですか?
「ウツなのか?うちの社長は。正しい経営判断はできているのか?」
社内に動揺が広がりますよね。
従業員が「カウンセリングに行ったなんて会社にバレたら昇進できない」と考えるのと同様に、経営者も「カウンセリングになんて行ったことが従業員にバレたら…」と考えてしまうんですね。
このように「口に出せない」「口に出したら最後、シャレにならない」ことが、全然分かっていないから、「もっと気軽に相談して欲しい」なんてことを言っちゃう。
逆説的になりますが、気軽に相談できることは、別にお金を払ってカウンセラーに相談するほどのことでもないんです。
クライエントは理解しているんです。
相談してもムダなことは相談しない、あるいは、相談できないことは相談できない。
それをちゃんと知っているから、相談しないのです。
それを考えもせずに、「相談して欲しい」と言ったところで、「じゃあ1億円融資してくれ」と言われるだけです。
そう言われたら、カウンセラーは「それはウチではちょっと無理です」と言いますよね。
それは、カウンセラーの「相談して欲しい」という「エゴ」で、クライエントを「ミジメにした」だけなんです。
追い詰められるほど、誰にも相談しないのはそういうことです。
例えば、美容整形したい人が、「整形するかどうか悩んでいることを相談する」ことも、やはり少ないのではないでしょうか。
カウンセラーがいくら共感的に理解しても、それは「解決」には結びついていないのです。
特に日本は「恥の文化」です。
他人に恥を晒すくらいなら、ミジメさを知られるくらいなら、死んだ方がマシと考える。
そういう人が多い文化なんですね。
だから「悩みが深刻であるほど、相談には来なくなる」。
キャリアコンサルタントの支援は、「キレイな支援」。
キャリコン業界の「支援」は、基本的に「キレイな支援」です。
簡単に言えば、「ハローワークに行ける」人々へのアプローチです。
本当に深刻な相談は、ハローワークなど、行けない、行かない、行きたくない。
だって、ハローワークでは、自分がミジメになるから。
採用?書類通過どころか履歴書は真っ白。
埋められるのは、名前と住所と生年月日、そして連絡先と日付。
学歴?〇〇中学校卒と言っても授業には出ないまま卒業した20年来の引きこもりですが何か?
そんな無価値な自分を見せつけられて、死んだほうがマシって気持ちになるのがハローワーク、ということを知る機会もないまま修了するのが、今の養成講習です。
ジョブ・カードを作って自己効力感が高まるような人々は、ぶっちゃければ「なんとかなる」。
もちろん、そういったハローワークに「行ける人」の支援にも大きな意義があり、支援する必要がないと言っているのではありません。
あなたの目の前に「いない」人は、「相談できない・しない人」だと考えなければいけないんです。
じゃあ、どうやって「キレイな上澄み」の支援から、「泥臭い支援」をして行くのか。
自分も泥をかぶって汚れる覚悟が無ければ、そりゃ無理ですよね。
そしてそれは、「ビジネス」では成り立たない。
以前、教師という仕事に就く人は、「金八先生」であって欲しいと言ったタレントさんが批判されました。
当たり前のことですが、「教師」だって、「仕事」つまり「ビジネス」なんです。
「僕はしにましぇん!」とトラックの前に飛び出せるのは、「自分が」好きな人と結婚したいから。
「お前が働いてくれなきゃ死ぬ!」とトラックの前に飛び出せる人は…?
そう、「家族」だけ。
親身とは「親の身」と書きます。
「親・家族」ではない、「他人」という立ち位置では出来ない支援もあるんですね。
「立ち位置」を自覚し、やれることをやる
何が言いたいかというと、「もっと気楽に相談できるように(カウンセリングが受けられるように)なれば」って、自殺を防げるかどうかの本質的な問題とは、あまり関係ない、ということです。
だって、「気楽に相談できる」のは「比較的軽い悩み」だから。
深刻な相談に対応するのは、「ビジネス」では採算が合わない。
ボランティアでも追いつかない、「慈善事業」になってしまう。
今のところ、日本でそれができる可能性があるのは、元ZOZOの前澤さんでしょうか。
少なくとも、お金で救える命があるのは事実ですから。
深刻な悩みを抱えたクライエントに対応するには、相応(というか莫大な)コストがかかる。
例えば、子どものいじめ問題では、引っ越しという手が打てるのは、資力のある親。
職場を退職するという手が打てるのは、退職した後も生活に不足が生じないだけの収入や資力が前提。
そこから目を背けて、「自殺する前に相談してくれれば…」と言ったところで、それは「お花畑」の世界。
メルヘン・ファンタジーの世界なんです。
そう考えると、協議会やJCDAが、コロナ不安の相談窓口を作らなかったのは、現状キャリアコンサルタントが「キレイな支援」しかできないことを知っているからなのかもしれません。
キャリアコンサルタントの立ち位置を自覚し、やるべきことをやれ、という暗黙のメッセージだったのかなと。
そんな風に思うわけです。