キャリ魂太郎です。

このエントリーでは、相談者に対するキャリアコンサルタントの「在り方」のひとつについて解説しています。

この間、村上春樹の「風の歌を聴け」や「ノルウェイの森」でエントリーを書いたら、嫁が自宅から「ノルウェイの森」を持ってきてくれたので、読み返しています。

大学時代に読んだときよりも、話の背景が理解できるようになっていて当時よりも面白く読めています。

また、じっくりと読むと泣きそうになったりしますね。

ちょっとご紹介しましょう。

ノルウェイの森に登場する「阿美寮」における治療の在り方

ノルウェイの森が出版されたのは1987年で、村上春樹と河合隼雄の対談が出版されたのは1996年なのですが、既に心理学的なアプローチの記述が随所にみられます。

例えば、主人公が好意を寄せている女性(直子)が、サナトリウム的(結核治療のための施設)な施設に入るんですが、そこで登場する年上の女性(レイコさん)が、施設の説明をするシーンがあるんですね。

「(この施設では)みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いを助け合おうとするの。
  他のところはそうじゃないのよ、残念ながら。

  他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。
  患者は医者に助けを請い、医者は患者を助けて『あげる』の。

  でもここでは私たちは助け合うのよ。私たちはお互いの鏡なの。
 (中略)だからここでは私たちはみんな平等なの。」

出典:文庫版ノルウェイの森 上 ©村上春樹 講談社 P200)

「『(心を)開くとどうなるんですか?』

  レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルの上で手を合わせた。

 『回復するのよ』」

出典:同P207

「鏡である」ということ

ここでは、「助けて『あげる』のではなく、鏡になる」

という言葉を、村上春樹作品の大きな特徴である「メタファー」として解釈すると、これは「オウム返し」のメタファーと言えるのではないでしょうか。

さらに、「鏡になる」ことによって生まれる相互作用を考えてみましょう。

支援者は、相談者が無意識的に把握している、相談者自身の「見たくない」部分に、気づいてしまうこともあります。

そして支援者は、相談者が「見たくない」部分が問題の根幹であると捉え、なんとか気づいてほしくて、鏡として映し出そうとする。

だから、支援者がよくできた鏡になることが、相談者からすると、ときには「責められている」「否定されている」ように感じられることもあるわけですね。

同時に、相談者も支援者の鏡であると考えてみます。

そうすると、この

「責められているように感じている相談者」

はそのまま、同時に

「責められているように感じている支援者」

になると思うんですね。

だからこそ「あたかも」という感じ方が大事なのではないでしょうか。

鏡は、そのまま真実を映し出すから、「世界で一番美しいのは白雪姫」と言ってしまい、王妃を傷つけたのです。

「ただ鏡であること」それも、難しい。

だけど、簡単にできないから、それだけの値打ちがあるんではないでしょうか。

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