資格で理想のライフスタイルを実現する、キャリ魂塾のキャリ魂太郎です。
このエントリーでは、職業選択における「環境」の影響を、椎名林檎の「歌舞伎町の女王」を題材に、解説しています。
Contents
環境の影響による職業選択
職業選択において、日本では「自己責任論」が非常に根強く、この考え方が例えば就職氷河期世代の支援を困難にしていたり、生活保護支援のハードルとなっていたりする等、社会的な支援が整備されない背景となっているケースが多々あります。
しかし、職業選択は「自己責任」で片付くような簡単なモノではありません。
例えば、構造理論では、「人間と環境の相互作用を重視」 し、「個人は環境との相互作用の中で興味や価値観を形成し、行動し、生活する」と考えています。
この構造理論は、心理学的構造理論と社会学的構造理論に大別されます。
心理学的構造理論
心理学的構造理論では(職業)選択は、主として心理的な要因(個人重視)とされます。
この心理学的構造理論の研究者とされるのは、フロイト、ブリル、ボーディン、ロー、ホランドなどです。
社会学的構造理論
社会学的構造理論は、(職業)選択は、主として環境的な要因である、つまり個人の選択や決定は、環境の影響が大きいとする理論です。
そして、この「環境」は
・社会的環境
・家族
・機会
以上の3つです。
こちらの研究者とされるのが、ブロンフェンブレナー、バンデューラ、ロバーツなどです。
椎名林檎の「歌舞伎町の女王」から「環境の影響」を考える。
さて、椎名林檎さんと言えば、リオ五輪閉会式で披露された2020年の東京大会プレゼンテーションでクリエーティブ・スーパーバイザーと音楽監督を務め、今や日本のアーティストの中でも一際脚光を浴びていることは言うまでもありません。
しかし、キャリアコンサルタント受験生の世代的には1998年の「幸福論」でのデビュー、そして続くセカンドシングル「歌舞伎町の女王」が印象に残っている方も少なくないのではないでしょうか。
この「歌舞伎町の女王」の歌詞から、今回は職業選択を検討していきます。
この、「歌舞伎町の女王」では、「あたし」の母親が歌舞伎町で働いていることが述べられます。
子どもの頃は、その華やかさに「魅せられた」歌舞伎町。
しかし、「あたし」が15歳になった頃、男と暮らすのに「あたし」が邪魔になったのでしょうか、母親は「あたし」を置いて失踪します。
「一度栄し者でも、必ずや衰えゆく」
(引用:歌舞伎町の女王 ©椎名林檎 EMI Records)
この意味を、実体験として知覚することになったんですね。
子ども心に「歌舞伎町の女王」とまで映った、頂点に上り詰めた母親。
しかしその支持を徐々に失い、やがて売上が上がらなくなったのか、「あたし」を置いて逃げるように消えた。
誰よりも間近で、「盛者必衰」の厳しさ、現実を知っている。
にもかかわらず、自らも「足を踏み入れる」。
母親をモデリングしたのであれば、通常はこの選択にはならないでしょう。
最終的に「失踪」するという、「凋落」を知ったのだから。
ではなぜ、母親をモデリングできたはずなのに、自らも同じ選択をしたのでしょうか。
「消えて行った女を憎めど」
(引用:歌舞伎町の女王 ©椎名林檎 EMI Records)
という部分があります。
ここで「憎む」という言葉と同時に、母親を親愛的な「ママ」という表現から、「女」と冷めた目で見下すようになっていることがわかります。
母親を「憎む」という表現、そして「女」と表現することで、自分を捨てたことへの感情を明示的、暗示的に伝えているわけですね。
そして、憎んでいるからこそ、「次の女王はあたし」になるのかもしれない。
だって「あたし」は「あの女に『生き写し』」なのだから。
だから「あたしも女王になれる、あの女より上手にやれる」と考えた可能性もあります。
また、「あの女に『生き写し』のあたしだからこそ、自らを嫌悪する」こともあるかもしれません。
当初は「ママ」と呼ばれていた母親が、憎しみそしてどこか醒めた眼差し共に「女」と呼ばれるようになる。
同時に、自らをも醒めた眼差しで「女」と語り、歌舞伎町に君臨する「女王」となる。
「あたし」の育った(育てられた)「環境」。
そして母親への「愛憎」。
これが、「あたし」が歌舞伎町での職業選択を行ったことに、大きく影響していることが分かります。
だから「自己責任論だけ」で語ることには「意味がない」のです。
ここまで読んだあなたは、「歌舞伎町で働く?自己責任でしょ」とは考えないはずです。
これがキャリ魂塾の学科試験対策講座で重視している、「理論を使って目の前の相談者に向き合う」ということです。
「同情を欲したとき、全てを失う」とは?
蛇足ですが、
「同情を欲したときに、全てを失うだろう」
(引用:歌舞伎町の女王 ©椎名林檎 EMI Records)
について。
そもそも、「女王」が同情を欲するでしょうか?
しませんよね。
同情で「王」になった者など、歴史上ただの一人もいないでしょう。
そう、「同情を欲したとき全てを失う」とは、「自分自身の美」ではなく、「同情」でカネを稼ぐことを考えた瞬間、もはや自らの美が「女王」に値するものではなくなっていることを意味する。
それが「歌舞伎町の『栄枯盛衰』」なんですね。
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