キャリ魂太郎です。

このエントリーでは、「認知不協和」という考え方について、解説しています。

二つの円を見て、考えてください。

さて、どちらの円が印象に残ったでしょうか。















おそらく「印象に残る」と言う意味で言えば、右側の「欠けた円」になるはずです。

ヒトは「完璧」を愛するがゆえに、「不完全」を無意識に補う。

人間は、完璧なものを愛する傾向があります。

イビツなものよりも、完璧なものが好きなんですね。

85点よりも100点満点を愛するし、お茶碗だって、欠けているものは「貧乏茶碗」って言ったりしますよね。

このように、欠けているモノよりも、欠けていないモノを愛するんです。

しかし、人間は誰しも完璧ではありません。

でも、完璧なものが好き。

だから、私たちは無意識的に、「欠けている部分を補おう」としてしまうんです。

「この資格」に欠けているモノを補うために、「他の資格」を取る。

「この味」に欠けているものを加えるために、「調味料」を加える。

「この人生」に欠けているモノが何だか分からない。だから「自分探し」をする。

こういう感じです。

これは「無意識的な働き」なので、あえて意識しないと、わざわざ「なぜ自分探しをするんだろう」と考えたりすることはありません。

そして、「欠けているモノを欠けているままにすること」が非常に苦手なんですね。

つまり、人間は「認知不協和」の状態のままにしておくことができないんです。

「こんなツラい仕事をしているのに」

→「給料が安い」

おかしいですよね。

「こんなにツラい仕事をしている」

のなら

→「給料は高い」

はずなんです。

なのに、給料は上がらない。

だから、私たちはこんなときどうするか。

「この仕事には、お金には替えられない『やりがい』がある」

という風に、「自分で自分を」納得させてしまうわけです。

これが「認知不協和」状態における、無意識的な働きです。

「正論では人は動かない」

はい、昨日のエントリーでもお伝えしましたが、改めて「正論」では人は動かないということを思い出してください。

他人から見て、明らかにおかしい考え方も、本人にとっては正しいことがよくあります。

「暴力さえ振るわなければ、イイ人なんです」

「私さえ、彼を怒らせなければイイ人なんです」

違います。

これは、認知不協和を、自分で補って協和させているだけです。

「暴力を振るわない」

「怒ったときも、感情的にならず、対話をしてくれる」

これが「イイ人」です。

そして「正論」です。

でもそれを「おかしい」と認めたらどうなりますか?

「これまでの自分を否定する」ことになってしまう。

だから「正論」では、人は動かない。

そんなこと、言われなくったって、知っているのかもしれない。

だけど、それを「おかしいと認める」と、これまでの自分まで否定することになってしまう。

これが、難しいんですね。

「正論」では、人は救われないし、変われない。

だから、「感情」に訴えかけるか、「自分で変わるべきだと気づく」必要があります。

あなたのお手元のテキストには掲載されていないかもしれませんが、木村本ではこの「認知不協和」という考え方が掲載されており、出題実績もあります。

なので、しっかりとここで押さえておいてくださいね。