このエントリーでは、キャリ魂塾メルマガからピックアップした記事について、加筆修正して掲載しています。

ホメオスタシスと「男子、三日会わざれば刮目して見よ」

おはようございます。

資格で理想のキャリアを描く、キャリ魂塾のキャリ魂太郎です。

今日の冒頭問題はこちら。

「成果主義的な労務管理施策とされる、目標管理はドラッカーによって提唱された。」

ドラッカーはご存じでも、こちらの正誤はどうでしょう。

さて、この時間にメルマガが届くということは、私が早寝早起きできているということ。

そして、スムージー生活も3日目となり、昨日は、電子レンジで蒸し野菜が作れるタッパーを100均で買いました。

今日のお昼は、カボチャとブロッコリーを蒸して食べたいと思います。

これが、ほんの少し前に「主食はルマンド」「ルマンドホワイトロリータ戦争」と書いた人間と同一人物でしょうか。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」とはこのことです。(昨今のジェンダー的潮流から言えば、「男女、三日会わざれば~」のほうが良いかもしれません)

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」とは

呂蒙という人は、呉王(ごおう)孫権(そんけん)に度々重んじられてきましたが、家がもともと貧しく、学問に触れる機会もなかったこともあり、武力一辺倒で学問に全く興味のない人でした。そのため、書類なども自分が話した内容を聞き取らせて、部下に作成してもらっていたそうです。そんな呂蒙の学識のなさを笑って、人々は、「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」とからかっていたのです。「阿蒙」というのは、今で言う「蒙ちゃん」といったニュアンスで、さげすんだ言い方ではなく、親しみを込めて、「おばかな蒙ちゃん」的な感じでからかっていました。

そんないつまでも「阿蒙」のままでいる呂蒙を見かねた呉王孫権は呂蒙に学問を勧めましたが、はじめのうち呂蒙は「軍中は何かと忙しく、書物を読む時間を取れない」と言い返していました。しかし、孫権は「博士になろうとしなくていいから、歴史を見渡して見識を広めてみてはどうか」と、どの書物を読んで学ぶべきかを教えたともいいます。国王にそこまで言われたら、やらざるをえません。呂蒙は発奮して、勉学にも本腰を入れ、やがて本職の儒学者たちをもしのぐほど読書をし、勉強を続け、見る見るうちに教養を身につけます。

勇猛(ゆうもう)なだけで無学であった呂蒙を軽蔑(けいべつ)していた知識人の魯粛(ろしゅく)は、日に日に上がる呂蒙の評判を聞いて挨拶(あいさつ)に向かいました。実際に語り合った呂蒙は、以前とは比べ物にならないくらい豊かな学識を兼ね備えた大人物へと成長していたのです。

おどろいた魯粛は、「昔言われていた『呉下の阿蒙』であったとはとても思えない」と称賛(しょうさん)しました。これに対して呂蒙は「士別れて三日、即(すなわ)ち更(さら)に刮目(かつもく)して相待すべし」、つまり「士たるもの、別れて三日もすれば大いに成長しているものであって、また次に会う時が目をこすって違う目でみなければなりませんよ」と答えたのです。

(引用:あんな話こんな話今週の朝礼

人間、何歳からでも変われるものですね。

ホメオスタシスとは

人間は何歳からでも変われるのですが、人間には元に戻ろうとする力があることもまた事実。

これを、「ホメオスタシス」と言い、日本語では「恒常性」と訳されています。

例えば、熱が38度になったら、元の36度台に戻そうとする働きなども、ホメオスタシスと言ったりします。

何事も三日坊主になってしまったり、私が英語の勉強を既にしていないのも、ホメオスタシスの働きです。

ホメオスタシスを克服するには?

ホメオスタシスとは、生理的反応でもありますが、人が持つ「変化への本能的な抵抗感」でもあります。

なぜそんな本能的抵抗感があるのか。

それは「今まで死なずに来られた」という、一応の生物的な成功パターンが誰にでも(生きている限り)あり、それをむやみに変えることは「死」のリスクの増大を意味するからです。

逆に言えば、人体が「あ、これ死なないわ」と認識すれば、新しいパターンを定着させることができます。

この「新しいパターンを定着させる方法」とは、端的に言えば、継続することです。

4年前、私は毎日メルマガを書くなんてことはしていませんでした。

メルマガを書かなくても「死なずにやってこれていた」からです。

しかし、今メルマガをやめろと言われたら、やめられなくはないですが、抵抗感はあります。

この抵抗感が、ホメオスタシスです。

私の本能が、「メルマガやめたくないなぁ」と思っているんですね。

「変わらないこと」のリスクとは?

さて、ホメオスタシスという「個人の本能的(生存戦略的)思惑」とは逆に、社会は変わり続けます。

そうすると、個人が変わらないであり続けるほど、社会との乖離が大きくなっていき、気づいたときには、ついていけなくなっています。

つまり、新しいことを学ぶのをやめたり、「自分はこれでいい」と、変化を拒絶した瞬間から、リスクを抱えることになり、そのリスクは時間とともに増大していくことになります。

そのリスクとは、「生物的な死」であったり、「社会的な死」です。

森元首相の発言、佐々木氏の発言、さらにアンジャッシュ渡部氏もそうです。

渡部氏は、結婚したのにも関わらず、倫理観が「変わらない」から、社会的にあれほど追い込まれたのです。

もっと身近で言えば、「パソコンを使えない」という年代が、事務職の転職市場という環境において、ほぼ転職ができない状況ですよね。

これも「社会的に追い込まれている」一つの事例です。

宮本武蔵とエリクソンの共通点

宮本武蔵は、五輪の書において、こう言いました。

有構無構といふは、元来太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。(中略)太刀は敵の縁により、所により、けいきにしたがひ、何れの方に置きたりとも、其敵きりよきやうに持つ心也。

(引用:「五輪の書」宮本武蔵 渡辺 一郎 岩波文庫)

これをざっくり言えば、「有構無構とは、太刀を形にはまって構えてはならない。刀は、敵の動きや場所、何かのきっかけによって、どのようにでも、敵を切りやすいように構えるのだ」となります。

宮本武蔵とエリクソンは非常に共通しています。

両者とも、観察を重視し、変幻自在であることを訴え、相手に合わせて柔軟に対応することを真髄とします。

そして、宮本武蔵もエリクソンも、主流とは言えません。

剣道では、二天一流ではなく、一刀流が主流ですし、心理療法では、エリクソニアンではなく、認知行動療法や精神力動、カウンセリングでは来談者中心療法が主流です。

変幻自在、理論化をしないことは、マニュアル化が難しいということになるため、広まらないんですね。

また、日本では「一『所』懸命」とあるように「コロコロ変わる」よりも、「一つのことに打ち込む人」を評価する傾向があります。

そういう意味では、ロジャーズ理論がこれほど日本で受け入れられたのは、「マニュアル化のしやすさ」と「奥の深さ(≒打ち込みがい)」の絶妙なブレンド、といった感じに思います。

冒頭問題は正しいです。ちなみに過去に類題が2級技能検定で出題されていますので、復習しておいてくださいね。

さて、ブログは、キャリコン業界の第一人者である高名な先生についてのツイートが、キャリコン業界の危うさを浮き彫りにした出来事です。

共進会の方は既にご存じですので、特に読まなくても問題はありません。

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