資格で理想のライフスタイルを実現する、キャリ魂塾のキャリ魂太郎です。


このエントリーでは、養成講習テキストには決して書いていない、楽しみながら学科論点を学ぶことを目的に、レヴィンソンの発達論点のうち、「成人への過渡期 (17歳~22歳)」を、「ぼくのりりっくのぼうよみ(以下「ぼくりり」)の「sub/objective」という曲の歌詞で解説しています。

レヴィンソンの「成人への過渡期」

レヴィンソンは、17歳~22歳を「成人への過渡期」とし、この時期は「大人の世界(社会)」への第一歩となる時期と述べました。

この時期は、「親、社会に守られて生きてきた環境を離れ、自分で道を切り開かなくてはならないという自覚が芽生える時期」です。

そのため、大人の一員としての最初のアイデンティティを確立し、成人の生活のための暫定的選択とそれを試みることが発達課題となります。

直面する課題:アパシーと離人感

「成人への過渡期 」に直面する具体的課題(現象)としては、「アパシー(apathy:無力感・無価値)」や「離人感」(自分が自分ではない感覚) があります。

ここで、「ぼくりり」の「sub/objective」という曲の歌詞の一部を見てみましょう。

いつしかすり替わる一人称から三人称へ
二元論でしか世界を観れないのは哀しい

全てにapathyだから魂奪われて融ける
いつしか物を見ている自分を見るようになった
人からどう見えてんのか それだけ気にしてる
なんて素晴らしい人生だろう

“Check this!!””Check this!!”
叫ぶ自分をobjectiveに眺める
急にどうでも良くなって 投げ出す何もかも
そして拾い集める また泣いてるよ

出典: sub/objective/作詞:ぼくのりりっくのぼうよみ 作曲:DAREI・ぼくのりりっくのぼうよみ

何ですか、この歌詞は。

意味が分からない。

初めて聴いたときは、ぼくりりの言語的センスに圧倒されて、歌詞の内容を考えることができませんでした。

しかも「ぼくりり」が、この「sub/objective」という曲を発表したのが、ちょうど高校3年生のときなんですね。

この「成人への過渡期」に突入した、まさにそのリアルでライブな感覚。

レヴィンソンの発達理論を知ってか知らずか、ぼくりりの紡ぎだしたこの「いつしかすり替わる」に始まるフレーズによって、この成人への移行過程の感覚が過不足なく表現されているように感じます。

それにしたって、高校生が「apathy」なんて単語を知っているだけでなく、ここまで使いこなすか…とか思ったりしますけども。

「sub/objective」による、ぼくりり的「発達論」解説

では早速、この「sub/objective」のフレーズを、詳細に検討していきたいと思います。

ここでの「いつしかすり替わる」とは、音も姿もなく「発達」という成長がその身に起こり、そして気づけば否応なく直面していることを意味します。

何が、どう「すり替わった」のでしょうか。

もちろん曲のタイトルである「sub/objective」が意味するように、「一人称(subjective)」から「三人称(objective)」へ「自己概念の所在」がすり替わったのです。

この「すり替わり」は、後でも「自己概念の外在化(objective)」として触れられます。

そして、価値・無価値論という二元論的なモノの見方に、自分自身が支配されていく感覚…

この支配されていく感覚に伴う哀しさこそが、「成人になる」喪失感でもあります。

だからこそ、自らが純粋性を失ったこと、換言すれば「子どもでは無くなった事実」に対する思いが、「二元論でしか世界を観れないのは哀しい」と、哀しみとともに絞り出されているのです。

蛇足ですが、この部分は中原中也的な「汚れちまった悲しみ」を想起させますね。

続いて「全てにapathy」であることが語られます。

ここで語られるのは、まさに「全てにおいて、無力であると感じる。自分は無価値なのではないかと思う」、このような成人への過渡期に生じるナマの感情です。

「魂」は、もちろん「apathy」と韻を踏んでいるわけですが、同時に「魂=自分自身」を奪われ(身体が)融ける、という離人感が生じていることが示唆されます。

その示唆を、明確に言語化したフレーズが

「いつしかものを見ている自分をみるようになった」

です。

これが「成人への過渡期」に生じる、「離人感」(自分が自分ではない感覚)です。

今回ご紹介した部分の冒頭において述べられた「一人称(sub)から三人称(ob)への視点の移動」について、ここで再度触れることで、離人感を聴く側により強く印象付けているように感じます。

そして、若者はこの「離人感」即ち自分を三人称(第三者)視点で見るように「なった」こと(自己概念のobjective(外在)化)により、「他人からどう見えてんのか それだけ気にしてる」という状態に陥ります。

これがエリクソンで言うところの、自我同一性拡散状態です。

(併せて、マーシャのアイデンティティステータスでは「拡散(Diffusion)」と表現される状態であることも覚えておくとよいですね。)

通常の発達過程を経ていく限り、拡散した自我は再統合され、自我同一性を達成しますので、そんな人生(状態)がいつまでも続くわけではないのですが、17歳の若者にそれを理解することは少々ハードルが高い。

そのため、これからは他者評価ばかりを意識して生きなければならないと考えてしまう。

だから彼は、「(人生がそんなものであるならば)なんて素晴らしい人生だろう」と自嘲気味に評しているわけですね。

そして、「check this!と叫ぶ自分を、objectiveに眺める」というフレーズ。

ここでもまだ、意識(自己概念)の外在化が生じたままであり、「叫ぶ自分」「objective(1.客観的な.個人的感情を入れない,2.外界の.実在の)に眺める自分」という離人感も続いています。

自らの意識が、身体と心を離れ、objectiveに自分を眺める。

当然、それは「他人からどう見えているのか」のcheck(内的照合枠との照合)です。

残念ながら、それが多くの場合、自らの描く理想(=内的照合枠)と合致しないことは自明です。

そんな自分を半ば自棄的に捉えれば、「どうでもいい」、「投げ出す何もかも」という思いが生じます。

それが、「急にどうでも良くなって 投げ出す何もかも」という「apathy(無関心・無気力)」状態です。

だって、自らに関心を持ってしまえば、自分が「持たざる人間(内的照合枠から外れている人間)」であることを直視しなければならないから。

どう頑張っても理想の自分にはなれない。

それに気づくことが、「成人(化)」であるとも言えます。

だから、何もかも捨ててしまいたくなる。

こんな自分なんて要らない、そう思ってしまう。

しかし同時に、人というパンドラの箱の底には「自己実現傾向」という希望が残っています。

その希望、「自己実現傾向」のゆえに、「そして拾い集める また泣いてるよ」と、泣きながら自らを受容していく。

その「泣きながらの自己受容過程」、「拾い集めた自分自身」に希望を見出すことこそが、「成年への過渡期」であり、同時に「発達課題」なのではないでしょうか。

ということで、ようやくですが、ここでそのフレーズを聴いてみましょう。


歌で聞くと、この独特な歌い方に引き込まれてしまい、歌詞の意味を考えることが逆にしづらいかもしれません。

しかし、この一連の歌詞が「成人への過渡期」に生じている、「身体感覚」と「価値観の変化への適合」(=課題)を表していることは、ご理解頂けるかと思います。

こんな風に、色々と関連付けてみると覚えやすくなってきますし、より曲の世界に浸ることができるかもしれませんね。

しかし、この歌詞を高校3年生が作詞する、なんて恐ろしい子!と白目になってしまいそうですが、さなりとかも16歳ですからね…ホンマ凄いわ。

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