キャリ魂太郎です。

このエントリーでは、山本周五郎の「蜜柑」から、「言葉にすること」の重要性をお伝えしています。

「蜜柑」の一節

山本周五郎の「蜜柑」と「内蔵允留守」という短編を読んでいたのですが、「言葉にすること」と「言葉にしないこと」の両方の大切さを感じます。

例えば「蜜柑」では、大高源四郎という侍が、有能ながら実直で頑固に過ぎるため、周囲とぶつかったり色々失敗をしたりします。

これを、上司である家老の安藤帯刀直次によく叱責されているわけですが、こういった一節があります。

けれども直次にはよくどなりつけられた。-そのほうはまことの御奉公というものを知らぬ、そのような我儘なことでいちにんまえのお役にたつものではないぞ。

ほかの者にはそれほどでもないのに、源四郎にだけは事ごとに辛辣だった、嫌われているより憎まれているとさえ思えた。

引用:深川安楽亭©山本周五郎 新潮社

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どうです?これツラいですよね。

自分にだけ厳しく当たる上司。

しかもその上司は人格者として、多方面から非常に尊敬されており、今でいうと総理大臣からも一目置かれるような人物。

なんで自分だけ…となってしまうのも致し方ありません。

さらには、この安藤帯刀直次、病に斃れてしまうのですが、その最期のお見舞いに来た源四郎に対して「そのほうは、まだ、まことの御奉公というものを知らぬぞ、そのような未熟なことではいちにんまえのお役にたたんぞ!」と怒鳴りつけて帰すのです。

うそーん、ってなりますよね。

もうこれで会えない、最期の最後まで、怒鳴られてしまった源四郎、ついに泣きながら「どうしたらまことの御奉公が相なりましょうか、恐れながらお教えをねがいたいと存じます」と懇願しますが、残念無念、けんもほろろに帰れと言われます。

なので、源四郎は退職を決意しちゃうわけですよ。

あなたなら、源四郎にどう声を掛けますか?

小説では、源四郎の主君である紀伊藩主徳川頼宣が出来た人で、「お前の主は誰だ。俺が辞めるな言うたら辞めるな」と思いとどまらせるわけですが、今の時代なら辞めていると思います。

最期にお見舞いに行った病床で怒鳴りつけられるとか、今なら一生残るハラスメントですからね。

そしてもし、この頼宜が「うんうん、最期の言葉まで叱責って、本当につらいよね」なんて感情を反射していたとしても、普通に辞めてると思うんですよね。

せめて「でも、直次はあんな人格者で、家康公も私に「父親だと思え」って言ってた凄い人なんだよね。そんな直次が、どうして君に「だけ」、最期まで叱責したんだろう?」というような質問をすることで、考えさせないと。

ただ、このときの源四郎は、直次に憎まれ疎まれていると誤解しているので、「よく分からないけどとにかく嫌われてたんです!」って言って、勢いでやめちゃったと思いますけど…

だから、このときの思いつめた源四郎への正しい応対は、頼宜がしたように「強権をもって思いとどまらせる」ことだったんです。

「十全に発達する」ことは「判断を間違えない」ということではない。

ずーっと、このキャリコン業界の「聴け聴けよく聴け」という©キンチョールみたいな態度指導に不信感が拭えなかったわけですが、大変申し訳ないけれど、回復すること(十全に発達すること)と正しく判断できることをごっちゃにしていますよね。

人は、回復する力があると信じることは大切です。

しかし「それとは別に」人は、間違えることもあるんです。

聴くだけでは、間違った方向に行くかもしれない。

例えば、「教育訓練給付金制度について調べる」とクライエントが自分で気づいたとしても、10年前の教育訓練給付金制度を現行制度だと思ってしまう可能性はありますよね。

そして、あなたがそのとき、クライエントの相談に乗ったキャリアコンサルタントだったなら、「どうして知っていたなら教えてくれないのか、どうして間違っていると言ってくれなかったのか」とクレームになるでしょう。

「聴く」だけでは、物事がいつも良い方向に働くとは限らないんです。

職業能力開発促進法において、キャリアコンサルティングが「聴く」(という態度)ではなく、「指導・助言」とされている理由をしっかりと考えてみてください。